腰を打撲して、仕事どころか日常生活に支障の出ている状態が長続き。

一応、整形外科には通院中である。

やっと落ち着けたところではあるが、どうやら戦うべき敵が増えた。

この情勢変化、一昨年、去年とオフで会ったとある方の体験と重なる気がしてきた。


遡ること8年ほど。

赴任地で、いささかのんびりとしてい頃である。

ご当人とはオフ会で顔が繋がった間柄。

その3年後、こちらは任地を離れ地元に帰ってきたのだが、年1回のペースで旧交を温めるために泊まりがけで出かけている。

そんな中で一昨年のこと。

趣味集まりのオフで「他の楽しみもできたし、そろそろ舵を切ろうかと」と、その方はおっしゃる。

元からテンションは低い人間が、それよりも少々冷めた感じで、こんな話を切り出した。

この直前に本人に身内の不幸があったと聞くので、状況が変わったと想像できる。

その後、職場を変え、翌年に喫茶店で会ったときは、完全に舵を切った感じがした。

その後、一応本人は無事に生きながらえている。


このケースとこちらの現状を比較するに、ようやく自分にも機会が回ってきた感覚を受ける。

まだまだ受け身な「感じ」を受けるだけなのだが。

実は過去にもチャンスがあったのにもかかわらず、身内の不幸で潰れた経緯がある。

今回は何もおきないことを祈ろう。

先週末は外出もあって書く時間が取れなかった。
当日は珍しく晴れ、その上夏日という気候である。
とにかく体力は削られる、そもそも往復の電車の混雑が平日朝のラッシュアワー並み。


遠来の知己に会うのが目的だったのだが、話を聞いてみれば、お互い大変である。
貧相な話、先行き不安の話、基本的には暗い話だらけだ。

 

…文句だけ言っていても先に進まないので、先々の話を考える。 
現時点で特に決めたことがあるわけではなく、流動性が高すぎて翌月の予定すら立てられない。

 

それだけなら良いのだが、慢性化している、原因も分かっているはずの腰痛の状態が改善しない。
これが一番の問題で、先週の外出中もこれで苦しんでいたのである。
一体なんなのだろう。

先週のことであるが、四半期末にかこつけて職場の先輩方と焼肉屋に行ってきた。
前週から日時と店を押さえておいたので唐突にに行ったのではないのが、慰労会ムード。

さて、その席で香ばしい話が出た。

居合わせた中の最年長が上級エキスパートという職位の人で、その関係で中途採用の面接官の依頼が多い、というのが始まり。

エキスパート職氏曰く、毎月のように採用面接で応募者と会うのだが、何となくボンヤリとしている応募者ばかりだった時期があったという。

実はワタクシメも中途採用で今の職場に来たのだが、その時の面接を受けた経験、面接に至るまでの経緯を思い出したので、その話もしてみた。

そして喋っていて気づいたのは、こんなところだ。

  • 応募者に意思なり目的意識がないのは採用は難しい
  • それなりに景気の良い時期は人は動かない、景気が悪くなり底を打ったあたりから動き出す
  • 巷間言われる通り世の動向を読んだ上で仕掛けるのが強い
  • 応募者個人の中にも波があり、世の流れと本人の位相が合わなければ、そもそも行動に出ない

こうやって喋って言語化すると気づく事柄から言えるのは、現時点で前の転職から一山もしくは一周期越えた感覚がある点だ。

この山なり波なり、そして谷底の話は別の記事にしようと思う。
しかも私的な領域の動きとリンクしていたのは偶然にも出来が良すぎた。

その意味で考えると今年はまだまだ静かである。

10月だというのに近くではセミの鳴き声がまだ聞こえるのが不思議なもんだ。

「断・捨・離」と再始動、ではないが。
ボロボロなので使いようのない品々を捨て始めた。
虫干しも兼ねた大掃除とも言えなくはない。

私生活面で先月から細々と再開させているものがあり、身軽になるのも目的。
ここ3年程、大人しくしすぎたという反省である。

本業が急に慌ただしくなり、過労気味だった状態から元に戻し始め、ようやくめどが立つまでのサイクルが3年、と考えると、病気休職の大変さが想像できる気がする。
どうせこちらの想像は甘いんだろうけど。

先週末の3連休期間、親類の納骨のお付き合いやら台風関係で丸々潰れた。

連休明けは納期の迫った案件を片付けるだけで精一杯。

この土日は過労のせいか、昼前まで起き上がれず。

毎週がこんな状態ならば、仕事以外は「メシ・フロ・ネル」だけである。

実は今も辛い。

世間の風向きとやらを見れば。
どちらを向いても縮小傾向である。

カメラ趣味の知人曰く。

「被写体を変える横滑りが起きる」
「惨めなのは金回りが悪くなった途端に質も落ちる」

何もかもがダウンサイジングする情勢。
パイ自体が縮小すれば、割る分母が変わらなければ、分け前は減る。

現状、言い換えれば既得権益にしがみつく人間が増えれば増えるほど、新規参入者が入り込めない、増えないという循環に陥る。

飽きや撤退で人が消えていくのに加えて、自然減もある。 高齢化で将来的に構成員が消えていく。

そうでなくても物事には何かしらのサイクルがある、と人は言う。
言い換えれば有効期限や賞味期限である。

そりゃ期限が切れれば捨てますわな。

興味が切れたら止めますわな。
続けられなくなったら止めますわな。
メリットが無くなたら止めますわな。

そういう二重の負のサイクルの中に生きているのだろう、と感じた週末であった。


ホント、取り残されて選択肢が無い、となったら、場合によっては「死に」ますからね。
如何にして「逃げる」という「出口」は必要悪かもしれない。
そういう「逃げた」経験もしているので、いずれ書くだろうな。

急きょ仕事を休む羽目になり、こんな時間からチマチマとカキコ。
前回の日記で、父方の祖母が亡くなってから、かえって忙しくなったと書いた。

はっきり言って、こちらに過干渉状態になった、それだけが原因である。
単純な理由であるが、これにも前段・前提がある。

今回はそのうちの一つを書いてみよう。
途中になるかもしれないが…


うちの一族は、少なくともワタクシメの3代上の段階で、今の実家の土地に住んでいたらしい。
祖母も結婚してから亡くなるまでは、実家にいて、ワタクシメの両親とも同居していた*1

面白いのは、祖母は中学校の教員免許を持っていて、非常勤教員として近場の公立中学校で教えていたこと。
父やおば・おじを出産してからしばらくの間は、育児にかかりっきり、手がかからなくなったら非常勤として復帰していたらしい。

ワタクシメが生まれ時は、祖母も還暦の少し前だったこともあって、非常勤を辞めた。
そのかわりなのか、私塾を開いていたことを覚えている。

一方で母親は、産休は取れども常勤の専門職で働き続けていたのが違う。
通勤時間としては50分弱の職場から、夕方は7時前に帰ってきていた記憶がある。

こういう状況なので、ワタクシメの幼少期の家庭環境は察しが付くだろう。

家族旅行も行かない年があるし、何しろ授業のない期間ですら、何かしらの形で縛り付けられるというのだから、圧倒的に「経験」が不足する。


今の過干渉状態の原因の一つが、この環境にあるのではないだろうか、そう思っている。
今更何もできないのであるが。

父親は、この状態の重大性に気付いているらしい。

*1:祖父も同様